<ビジネスルール> 緒方洪庵の適塾では翻訳は厳禁だった

ビジネスルールは、禁止や制限をビジネスプロセスに対して強制する。強制する目的があるからだ。今から160年ほど前、福沢諭吉など幕末・明治の有為な人物を輩出した適塾は、ひどく意外に感じるが、翻訳を塾生に禁じていた。明治時代の学問が、西洋からの輸入で成り立っていたことを考えると、この時期の学問の不自由さは否めない。

しかし、学問の自由を守るために、翻訳をしてはならなかったのだ、という背景を知れば、少し見え方が変わるだろう。

いつの頃からかわからないが、適塾には教育方針を示す塾則が掲げられていた。塾長をつとめた経験を持つ福沢諭吉によると、彼が安政二年(1855)入門当時、玄関に掲示してあった塾則には、第一条に「学生の読書研究はもちろんのことなれども、唯(ただ)原書を読むのみ、一枚たりとも漫(みだり)に翻訳は許さず」とあったとあるが(「国はただ前進すべきのみ」『福翁百話』)、第二条以下何条まであったか、その全容は不明である。しかし、この第一条は当時の時代相をよく反映していると見ることができる。

幕府は天保十一年(1840)から、蘭書翻訳書の流布を取り締まり、次第に蘭医学が一斉を風靡する勢いに対する漢方医の嫉妬・策謀を背景に、嘉永二、三年(1849、50)ごろには幕府医官に対して、蘭方医術は外科・眼科以外を禁止と令した。また、蘭書を翻訳・刊行することを制限する布達を出していた。

伊東玄朴(げんぼく)の象先(しょうせん)堂の塾則第一条「蘭書並翻訳書之外雑書類読候事一切禁止」と対比して、洪庵は適塾の塾則第一条に、「原書を読むことのみにとどめ、翻訳することは厳禁する」と掲示した。それは、幕府の蘭学抑制政策から学問研究の自由を守るためのものであった。ここに洪庵の深慮を読み取ることができる。

梅渓昇「緒方洪庵吉川弘文館(2016) p.94

適塾の翻訳書に頼らず、原書を読むべきという姿勢は正しい。塾という組織を幕府の政策から守り、かつ、原書を読むべきという学問のまっとうな道を促してもいる。

象先堂の方も、蘭書と蘭書の翻訳書以外は読むことを禁止するというストイックな姿勢は尊敬すべきである。塾生が勉学以外に現を抜かすことは、この塾則からして、ないだろう。しかし、幕府の蘭学の抑制政策に抵触するため、ストイックに頑張った塾生に対して、不利益が生じるかもしれない。怠惰な心から塾生を守ることが出来たにしろ、塾生を権力から守るルールにはなっていないのだから。

ルールは禁止をするものであるが、本来の組織の目的を達するためのものだ。適塾は学問の自由を守ることが目的の一つであったろうし、象先堂は学生の(権力にも負けない胆力も含めた?)鍛錬が目的であったのだろう、ということが垣間見える。