統制される組織は窮屈か?

コンプライアンスのために、効率度外視のルールが決められていることが、日常のビジネスで問題になって久しいと思う。コンプライアンスは、いたって平たく言えば、経営者が、株主やら、検察やら、マスコミやらから、訴訟を起こされたり、逮捕されたり、非難の嵐を浴びせられたりということを避けたいという、いわば「恐怖」をモチベーションに、企業組織に導入された縛り事だったという理解で、間違ってはいないと思う。厳密には、もちろんいろんな整理をすることはできるだろうけども。

ルールがたくさんあると、そのルールを知悉しないと、その組織で効率的に働くことができなくなるし、生産性はルールを前提とした競走という程度のことではなくて、ルールの使いこなし力が生産性の一番の要素というかなり逆転した状態になってくる。本来なら、「一番速く走れる人が誰か競走しよう!」というときに、お互いを邪魔しちゃいけないとか、フライングはダメとか、そういうのがルールだったとおもう。でも、今の大企業の組織の状態は、利益を一番上げたということは、まあ評価されるだろうけど、一番偉いわけではなくて、ミドルマネジメント以下であれば、ミドルマネジメントが決めたKPIを自分の組織やチームのエゴを通して、社内ルールを知り抜いたうえで、社内人脈をベースに出し抜いて他の邪魔をしながら達成し、シニアマネジメントになれば、トップマネジメントが決めたKPIを競合の邪魔をして、自社のエゴを通して実現するというのが出世の道のような状態だ。

まあ、そういうのが大企業の常だとすれば、ルールが明文化されて整備されていれば、それはそれでフェアなのかもしれない。そこに、ルールを前提として業務を変える権限が付与さえされていれば。ルールさえ守れば、どのような仕事の仕方をしてもいい、というコミットメントがあれば、フェアなんだろう。

だから、コンプライアンス過剰なルールで縛られた業務というのは、それ自体が問題ではなくて、ルールを守った業務プロセスを柔軟に変えられる権限が与えられていないということが、一番の問題だというのが、わかると思う。

実際、ルールに業務プロセスの仕方まで書いてあって、それを変えるのは容易じゃない。でも、本来、それは変えていいはず。変える力こそ、従業員に与えるべき、僕はそう考えている。