占いを見るのをやめる

自分にとって占いは、ポルノか、アルコールのようなものだと気づいて占い断ちをすることにした。特に課金をするわけではなかったのだけど、仕事で自分の評価が気になるときに何度も見てしまっていて、何らメリットがないにもかかわらずずっと読むのは、まるでポルノのようなものだと思ってはいた。自己コントロールの問題だなと思うというところまできたので、今後は一切見るのをやめるようにしようと思った。

 

あとちなみに今止めている事は、お酒アルコール、TwitterInstagramFacebook、などのSNS、エロ動画などのポルノ。タバコ。あと悪態をつくこと。リボ払い。

 

 

戦後のフィクション

戦後のフィクションが、世代交代を通じてネタベタ変換したものの、安倍政権の5年間で戦前の地層や江戸時代を掘り返してみるムーブメントにより、やっぱりフィクションだったとわかるというのって、理念を大事にする人から見たら、やりきれないと思う。でも、事実の方が、結局は強いと思う。

「カタカナ語批判」批判

カタカナ言葉を多用すると小池さんが批判されているが、言葉尻で批判するのは本質的な批判を妨げるのでやめてもらいたい。政策の具体性がないとか、実現性とか、政策相互の矛盾とか、現状認識の誤りとか、他の指摘をしろよって思った。

オープンデータ礼賛

産業政策は成功しにくいとされているが、僕はちょっと違う意見を持っている。つまり、うまくいく産業政策がありうるという意見。うまくいくのは、それは将来の見通しをつけやすくするオープンデータの提供というもの。これは多分橋や道路のインフラと同じように、みんなが使えるようになると良い。

それも自分で調査するのではなく、企業が調査したデータを買ったらいい。あらかじめ、データの標準を決めて、これに適合したデータは買うと。

昔、TBSラジオのLifeだったかで、速水健朗氏が、たしか提唱していたように思う。具体的な投資対象は、覚えてない。

公共投資として、データに支出し、データを公開させると、いろいろな面白いことができる。例えば、公園の池の水温を常に公開するでもいい。公立学校の図書館の蔵書データでもいい。マンションの老朽化に関する情報でもいい。ごみ回収の清掃車のドライブレコーダーに映った風景でもいい。なんでも公開するつもりで、公開のための費用を公共事業で支出して公開しておけば、役に立つ。

ただ、単に何でもいいとなると、投資の集積によるブレークスルーが期待できないので、企業がデータ収集したら、そのデータを公共投資として買ってしまえばいいと思う。なぜなら、企業にとってすでに必要な情報だから、集めるのであって、必要がないなら集めない。あとは、政府の側が、環境とか、健康とか、安全とか、少子化とか、必要な分野でデータを買うと宣言すればいい。

データの精度は、公共事業として、精度確認をすればいいと思う。

 

 

「夢能」とは関わらない

ここで「職業にミスマッチな人物で、適性について成長することが客観的に期待できない人」を「夢能」と呼ぶ(造語)。職業には適性があるので、単に職業がミスマッチなだけだ。

夢能と関わると、成果が出ない。

これは、見逃されているようで重要な真実だ。上司が夢能でも、部下が夢能でも、関わるとろくなことがない。僕は、たいてい、忍耐強いので、温情で手助けをする羽目になるが、報われたことは一度もない。報われると思って手助けをするわけではないので、報われないことは問題ないのだが、夢能の人の成果が上がるかといえば、上がらない。だってそれは、自分の手助けによる成果だから。・・・、ということに気づいたとき、夢能と関わることを止めることにした。

成果を上げるのであれば、有能な人にリスクがあり、価値ある仕事をやらせる。コストを下げるのであれば、有能な人の価値のない仕事をなくす。価値のない仕事は、単にやらない理由と、断固やらないと宣言しそれっきりにする。または、単にやらない。人が余っているからといって、夢能の人に、価値のない仕事をやらせると、夢能の人と関わることになるし、夢能の人も、自分の適性に合った仕事に早く移る機会を先延ばしにすることになる。