権利と義務の関係は、電流と電子の関係に似ている

権利と義務の関係は、電流と電子の関係に似ていて、電子の流れが基礎だけど、電流の方が応用面で扱いやすい。義務は基礎研究にはいいけど、国家や市場などを分析するには権利の方が扱いやすい。

問題は自然権とか基本的人権を分析するときに、差が出ること。僕は、差が出てくるような自然権とか、基本的人権の概念は、まだ今後も基礎理論研究の余地があると思うけど、応用面では間違いなく確立した概念だ。

例えば、生存権社会権に分類される基本的人権だけど、これは国家に「生存を要求する権利」であって、生存を保証される権利ではない。基本的人権とは、譲り渡すことのできない権利という意味で解せば、確かに命を譲り渡すことはあり得るわけで、譲り渡せない権利として、「生存を要求する権利」があるのだと理解できる。

やや、ややこしい議論だと思わないだろうか。

素朴に考えれば、命が第一だし、安全第一だから、国家の義務として国民の安全が一番だ。国民の命が一番なので、国家はまず、義務を果たす能力に限界があるにせよ、国民の命を脅威から守る義務を負っている。

このように、義務で語ればややこしい論理でなく定義できるのが、権利の言葉で語るからスッキリしない。

国の成り立ちとして、自然人に自然権があり、権利を一部国家に委託したか譲ったかした、という社会契約論的にとらえると、自分の生命を安全に保つ義務の一部も国家に委託したか譲ったかしている。ルソーの一般意志の優れたところは、この義務も一般化し、一般意思としての義務に昇華すると考えることであると思う。

つまり、一般意志まで行けば、法人としての国家がみずから国民の保護を自らの義務と考え、国民がその恩恵に浴すると考えるのと、差がわずかなのだ。