ルールに書いていないことはなんでもやっていいのだろうか?

前回ルールは、制約をし、強制をするもので、それら(制約と強制)がないとルールとして何かがおかしいということを書いた。その裏側として、ルールに書いていないことは、なんでもやっていいということなのだろうか? 

普通の常識人なら、なんでもやっていいわけではないという風に答えるだろう。

しかし、単純にそのようにルールを書けばいいにもかかわらず、書いていないのであれば、なんでもやってよいとしか捉えようがない。ルール設計者の怠慢や能力不足で書いていないのか、それとも意図して書いていないのか、ルールを読む側は判断できないからだ。

それに、ルール設計者の怠慢や能力不足は避けられないかもしれないが、対策としてプログラムのInclude文のように、他のルールブックを参照すれば、特に労力もかけずにルールの不足は生じない。コンプライアンス目的であれば法令を参照すればいいし、経理であれば会計基準でもいいし、JIS標準でもいいし、もっといえば良心とか常識とかを参照したって悪くはない。

ただ、よく考えてほしいのは、企業にしろ、非営利法人にしろ、公共団体にしろ、組織の目的はその構成員をルールで縛ることではない。ルールは、その組織の目的を達成するためのステートメントの集合なのであって、極端に制限をかけることがその目的に資するかどうかで考えればいい。目的を阻害するルールがたくさんある組織や社会と、そのようなルールがない組織や社会では、後者のほうが速やかに目的を達成することができることは明らかだ。

また、別の観点もある。明文化されたルールは容易に変えられるから、あえて変えたくないルールは明文化しないという意味で、「信念」や「価値観」が使われることがある*1

組織のルールは、経営から権限移譲されたルールを変更することができる人(おおよそコーポレートの部長達や、各事業の事業部長)が、責任を持つべきで、もし、ルールが変更できないようになっているとすると、もうそれは組織の責任ではコントロールできないものだ。もちろん、脈々と代々伝わっていくこともあるだろうが、代替わりを繰り返すと不文律が劣化しながら伝わっていくというのが世の常だ。

「信念」や「価値観」を明文化してはならないという理由にはならない。「信念」「価値観」こそ明文化して、各ルールと紐づけを行い、ルールの格上げを行っておいたらいいだけのことだろう。

電通鬼十則*2は、非常に有名だけど、この明文規定は明文規定としてあるからこそ、見直しをしていくことができる。もし、電通ブラック企業性がこの鬼十則にふくまれているのであれば、これを変えればブラック企業性が解消できるだろうし、もし鬼十則こそが電通だとするなら、電通が時代に適合しないというだけだろう。電通が時代に適合するというなら鬼十則を変えたらいい。もちろん変えるためには、相当の覚悟がいることは事実だろう。

 さて、最初の疑問に戻ってみよう。ルールに書いていないことは何でもやっていいのだろうか、ということについて、もしそれがやってはいけないと判断できるのであるとすると、ルールに書いてないほうがおかしいので、ルールを是正するべきであり、やってはいけないと判断することができないのであれば、実施してよいということになる。

ちょっとわかりにくいかもしれないが、ルールは継続的に改善していくものであり、改善をする機会は実際に何かをして結果を得るというフィードバックがないと改善ができない。ルールがないということは、過去にその行動をして問題なかったか、行動をしていないかということを含意する。だから、実施してはならないということになるまでは、実施してよいのだ。

 

 

*1:雙葉学園は、雙葉生らしいというキーワードを明文規定なしで使うことで、変更不能な状態を維持している

toyokeizai.net

*2:

公益財団法人 吉田秀雄記念事業財団 | 財団の概要 | 吉田秀雄について | 「鬼十則」