戦後のフィクション

戦後のフィクションが、世代交代を通じてネタベタ変換したものの、安倍政権の5年間で戦前の地層や江戸時代を掘り返してみるムーブメントにより、やっぱりフィクションだったとわかるというのって、理念を大事にする人から見たら、やりきれないと思う。でも、事実の方が、結局は強いと思う。

オープンデータ礼賛

産業政策は成功しにくいとされているが、僕はちょっと違う意見を持っている。つまり、うまくいく産業政策がありうるという意見。うまくいくのは、それは将来の見通しをつけやすくするオープンデータの提供というもの。これは多分橋や道路のインフラと同じように、みんなが使えるようになると良い。

それも自分で調査するのではなく、企業が調査したデータを買ったらいい。あらかじめ、データの標準を決めて、これに適合したデータは買うと。

昔、TBSラジオのLifeだったかで、速水健朗氏が、たしか提唱していたように思う。具体的な投資対象は、覚えてない。

公共投資として、データに支出し、データを公開させると、いろいろな面白いことができる。例えば、公園の池の水温を常に公開するでもいい。公立学校の図書館の蔵書データでもいい。マンションの老朽化に関する情報でもいい。ごみ回収の清掃車のドライブレコーダーに映った風景でもいい。なんでも公開するつもりで、公開のための費用を公共事業で支出して公開しておけば、役に立つ。

ただ、単に何でもいいとなると、投資の集積によるブレークスルーが期待できないので、企業がデータ収集したら、そのデータを公共投資として買ってしまえばいいと思う。なぜなら、企業にとってすでに必要な情報だから、集めるのであって、必要がないなら集めない。あとは、政府の側が、環境とか、健康とか、安全とか、少子化とか、必要な分野でデータを買うと宣言すればいい。

データの精度は、公共事業として、精度確認をすればいいと思う。

 

 

「夢能」とは関わらない

ここで「職業にミスマッチな人物で、適性について成長することが客観的に期待できない人」を「夢能」と呼ぶ(造語)。職業には適性があるので、単に職業がミスマッチなだけだ。

夢能と関わると、成果が出ない。

これは、見逃されているようで重要な真実だ。上司が夢能でも、部下が夢能でも、関わるとろくなことがない。僕は、たいてい、忍耐強いので、温情で手助けをする羽目になるが、報われたことは一度もない。報われると思って手助けをするわけではないので、報われないことは問題ないのだが、夢能の人の成果が上がるかといえば、上がらない。だってそれは、自分の手助けによる成果だから。・・・、ということに気づいたとき、夢能と関わることを止めることにした。

成果を上げるのであれば、有能な人にリスクがあり、価値ある仕事をやらせる。コストを下げるのであれば、有能な人の価値のない仕事をなくす。価値のない仕事は、単にやらない理由と、断固やらないと宣言しそれっきりにする。または、単にやらない。人が余っているからといって、夢能の人に、価値のない仕事をやらせると、夢能の人と関わることになるし、夢能の人も、自分の適性に合った仕事に早く移る機会を先延ばしにすることになる。

 

 

権利と義務の関係は、電流と電子の関係に似ている

権利と義務の関係は、電流と電子の関係に似ていて、電子の流れが基礎だけど、電流の方が応用面で扱いやすい。義務は基礎研究にはいいけど、国家や市場などを分析するには権利の方が扱いやすい。

問題は自然権とか基本的人権を分析するときに、差が出ること。僕は、差が出てくるような自然権とか、基本的人権の概念は、まだ今後も基礎理論研究の余地があると思うけど、応用面では間違いなく確立した概念だ。

例えば、生存権社会権に分類される基本的人権だけど、これは国家に「生存を要求する権利」であって、生存を保証される権利ではない。基本的人権とは、譲り渡すことのできない権利という意味で解せば、確かに命を譲り渡すことはあり得るわけで、譲り渡せない権利として、「生存を要求する権利」があるのだと理解できる。

やや、ややこしい議論だと思わないだろうか。

素朴に考えれば、命が第一だし、安全第一だから、国家の義務として国民の安全が一番だ。国民の命が一番なので、国家はまず、義務を果たす能力に限界があるにせよ、国民の命を脅威から守る義務を負っている。

このように、義務で語ればややこしい論理でなく定義できるのが、権利の言葉で語るからスッキリしない。

国の成り立ちとして、自然人に自然権があり、権利を一部国家に委託したか譲ったかした、という社会契約論的にとらえると、自分の生命を安全に保つ義務の一部も国家に委託したか譲ったかしている。ルソーの一般意志の優れたところは、この義務も一般化し、一般意思としての義務に昇華すると考えることであると思う。

つまり、一般意志まで行けば、法人としての国家がみずから国民の保護を自らの義務と考え、国民がその恩恵に浴すると考えるのと、差がわずかなのだ。

解散権は、政党政治の危険性を抑制するために必要な総理大臣の権限だ

希望の党は、単に準備不足なだけだと思うけど、首班指名をする人を決めずに選挙に臨む様子を見ると、解散権を総理大臣が持つべきということがはからずも分かる。もし、議員でない人間(都道府県知事とか)が、多数党を支配する権力を持った時、内閣総理大臣は有名無実化する。

つまり、総理が解散権持たないと、政党の支配者が本当の権力者であるにもかかわらず、議会に責任を負わなくてもよい、無責任な存在となる。

政党政治は、本質的に国家を転覆させる力を持つ。国家の制度で、政党政治に対抗できる仕組みとして解散権があるのであり、二院制があり、司法権の独立がある。政党の本分は、政策決定と、行政府の民主統制にあるから、これを超える権力は制限されてしかるべきだ。

アメリカは大統領に解散権がないけど、大統領令と法案拒否権がある。古代ローマ護民官特権のようなこの拒否権は、共和制が等閑にしがちな人民保護の目的を有するから、解散権に比べたら目的が限定的だ。しかし、その分大統領は議会に対して責任を負わない。しかも、下院の任期は2年しかない。解散権がない分、議会の力も限られる。

イギリスは、解散権を議会に移したが、これは、解散権を首相が持った状態だと、連立パートナーの少数与党が自党の政策を国政に反映させる前に首相が裏切り、解散するという*1事態を恐れたためだ。本質的には、党のことしか考えていない、国民不在の議論だ。僕は、キャスティングボードを握った少数政党が、自分たちの議席を高く売りつけ、マイナーな政策が通りやすくなることは、社会変化を敏感に感じるようになるという意味で、悪くはないと思うが、それが解散を制限し、民意を反映しずらくすることによって達成するというのは、筋悪だと思う。

 

 

 

 

*1:

 

The Coalition and the Constitution

The Coalition and the Constitution